BLOG
ブログ
2022.12.20 校長のブログ【月一】
12月のブログ【自由と責任】
2022年も残りわずかになりました。
一気に冬になって寒い日が続きますが、体調は崩していませんか?
2022年のADVANCEは、新たなシステムの導入・新たなクラスの導入・イベント出演に積極的に参加しました。
イベント出演に関しては、生徒・保護者の方々に負担をかけてしまったかと思いますが、ADVANCEとしてはこういった思いがありました。
■今までコロナ禍でイベントに参加出来なかった(無かった)事
■一生懸命頑張っている生徒達をたくさんの人に見て欲しかった事
■ダンサーとして成長して欲しい、経験を積んで欲しい
このような思いから『今年はたくさんのイベントに参加しよう!』と決めました。
初めて出演するイベントで、どういったイベントかわからない。ギリギリまで出演できるかわからない。イベント側の内容がしっかりと決まっていない...など、不安な要素がある中でも、出演するという思いがありました。本来であればイベントを精査し、しっかりと判断して『出演するのか?しないのか?』『どういったクラスが出演できるのか?』などを把握した上で出演を決めなければならないと思います。しかし、3つの理由と"ADVANCEは常に挑戦する"という観点から「出演できるクラスは出演する」という決定を致しました。結果として、皆様に負担やご迷惑をおかけした事をこの場にてお詫び申し上げると共に、生徒達には非常に良い経験を積んでもらったと確信しております。これからの成長が非常に楽しみです。
今月のテーマ
【自由と責任】
自由が良い。自由は最高。
考えるのも自由、行動するのも自由、何にも縛られない事で得られる開放感。ルールに縛られない自由とはなんと素晴らしいことか。
誰しもが憧れるであろう『自由』という言葉です。
どうして世の中にはルールや決まりがあるんだろう?もっと自由で良いじゃないか。人それぞれ違うんだから、それに合わせて自由なルールがあっても良いじゃないか。こんな不満すら出てくることでしょう。
では、そんなルールや決まりが世の中に存在するのはなぜでしょうか?
ここについて、お話ししたいと思います(※校長の考えなので参考程度に笑)
確かに『自由』とは素晴らしいものです。白紙の状態...真っ白な状態から、好きなようにデザインし、ストレス無く自分の思うようにできます。
サッカーで手を使うことが出来たらもっと面白くなるんじゃないか?バスケでキックを使えるようにしたり、ボールを両手で持って3歩以上走っても良いんじゃないか?そもそもゴールとか無くても良いんじゃないのか(これは言い過ぎ笑)
ですがこれは...あまりにも自由過ぎますよね?笑
しかし『自由』とはこういう事ではないでしょうか。これらを許してしまうとサッカーやバスケでは無くなってしまいます。ルールがあるからサッカーでありバスケな訳です。ファウルすると大なり小なりのペナルティを喰らいます。ペナルティが溜まってしまったり、危険なプレーをすると退場です。そんな決まりある中、勝敗を決め『どちらが勝つか』競い合います。上級者ともなれば、ルールギリギリのラインを見極め、ルールの隅っこまで使ってプレーをするでしょう。ルールという枠内で競うことにより、難しさはあれ、楽しさを見出し・やり甲斐を感じ・勝利することで達成感が生まれるわけです。
ルールがあるから"サッカー""バスケ"であって、全選手がルールに則っているから競技(スポーツ)として成り立ちます。
選手は『サッカーやバスケの決められたルールを守るという責任があり、責任を負うこと(守ること)でサッカーやバスケが成立している』という事です。
では本題の『自由の責任』はどこにあるのでしょうか?っというよりも、自由に責任なんて存在するのでしょうか?
例えば、真っ白な画用紙があったら何をしましょう?
絵を描くのはもちろん、折り紙のように折って使っても良いし、ハサミを使って切って使っても良いですよね。画用紙の色を変えても良いです。素敵なものを作成しても、ストレス発散に使用しても良いです。このようにできることはたくさんあると思います。
その真っ白な画用紙の使い方は『自由』な訳ですが、その画用紙は『使用者によって変化させられる』事になります。仮に人目に付くような状況や、評価の対象となれば、どういった結果が自分に見えてくるでしょう?真っ白の画用紙を綺麗に変化させた場合は賞賛され、酷い状態に変化した場合は批判されるのではないでしょうか?...「誰が?」そう、自分です。誰のせいにも出来ず、モノのせいにする事も出来ず、ダイレクトに自分に跳ね返ってきます。
真っ白の画用紙を自由に変化させたのは自分自身です。
つまり自由の責任は『自分自身』にあるという事です。
自分自身に責任があるほど重い責任はないはずです。
自由を欲しがる人の傾向として『目の前にあるルールを守らない』または『ルールが嫌い』な人が多いのではないかと僕自身感じています。
ルールや決まりが何故あるのか?何故必要なのか?まで考えた事はあるでしょうか?それらルールは"その物事(目的)が円滑に運ぶように、または不正や不平等が発生しないように、個人の成長を促す為に"など様々な理由から存在します。それらを理解し、踏まえた上で言うならば良いのですが、ルールや決まり事を守らない、守れない人が言う『自由が欲しい』という言葉ほど恐ろしいものはないと思っています。必ずと言って良いほど『自分自身が傷つく』または『他人を傷つけてしまう』可能性が高いからです。自分自身が傷つくだけであれば良いのですが、他人を巻き込んで"自分の自由のために傷つける"ような事は、人としてあってはならないと思います。
自由には責任が付きもの。自分という責任を負う。
自由を手に入れ、自分でルールや決め事を作った時点で『自由』ではないのかもしれません。楽しみたいのであれば、決められたルールを守り、ルールという枠の中で楽しんだ方が良いのかも入れませんね。ただ、自由だからこそ出来ることは無限にあります。ビジョンを描き、叶わないであろう事を想像し、組み立てる...そこの部分は『自由』だからこその楽しみです。
ルールがあって、守るからこそ"それ"が成立する
唯一ルールを破って良い時は『人としておかしい』と思った時。それ以外は『守れる人』であって欲しいと思います。何よりそれは自分自身の為に。そうでないと人生のペナルティが溜まってレッドカードが出てしまいます。試合から退場しないように注意したいところです。
一気に冬になって寒い日が続きますが、体調は崩していませんか?
2022年のADVANCEは、新たなシステムの導入・新たなクラスの導入・イベント出演に積極的に参加しました。
イベント出演に関しては、生徒・保護者の方々に負担をかけてしまったかと思いますが、ADVANCEとしてはこういった思いがありました。
■今までコロナ禍でイベントに参加出来なかった(無かった)事
■一生懸命頑張っている生徒達をたくさんの人に見て欲しかった事
■ダンサーとして成長して欲しい、経験を積んで欲しい
このような思いから『今年はたくさんのイベントに参加しよう!』と決めました。
初めて出演するイベントで、どういったイベントかわからない。ギリギリまで出演できるかわからない。イベント側の内容がしっかりと決まっていない...など、不安な要素がある中でも、出演するという思いがありました。本来であればイベントを精査し、しっかりと判断して『出演するのか?しないのか?』『どういったクラスが出演できるのか?』などを把握した上で出演を決めなければならないと思います。しかし、3つの理由と"ADVANCEは常に挑戦する"という観点から「出演できるクラスは出演する」という決定を致しました。結果として、皆様に負担やご迷惑をおかけした事をこの場にてお詫び申し上げると共に、生徒達には非常に良い経験を積んでもらったと確信しております。これからの成長が非常に楽しみです。
今月のテーマ
【自由と責任】
自由が良い。自由は最高。
考えるのも自由、行動するのも自由、何にも縛られない事で得られる開放感。ルールに縛られない自由とはなんと素晴らしいことか。
誰しもが憧れるであろう『自由』という言葉です。
どうして世の中にはルールや決まりがあるんだろう?もっと自由で良いじゃないか。人それぞれ違うんだから、それに合わせて自由なルールがあっても良いじゃないか。こんな不満すら出てくることでしょう。
では、そんなルールや決まりが世の中に存在するのはなぜでしょうか?
ここについて、お話ししたいと思います(※校長の考えなので参考程度に笑)
確かに『自由』とは素晴らしいものです。白紙の状態...真っ白な状態から、好きなようにデザインし、ストレス無く自分の思うようにできます。
サッカーで手を使うことが出来たらもっと面白くなるんじゃないか?バスケでキックを使えるようにしたり、ボールを両手で持って3歩以上走っても良いんじゃないか?そもそもゴールとか無くても良いんじゃないのか(これは言い過ぎ笑)
ですがこれは...あまりにも自由過ぎますよね?笑
しかし『自由』とはこういう事ではないでしょうか。これらを許してしまうとサッカーやバスケでは無くなってしまいます。ルールがあるからサッカーでありバスケな訳です。ファウルすると大なり小なりのペナルティを喰らいます。ペナルティが溜まってしまったり、危険なプレーをすると退場です。そんな決まりある中、勝敗を決め『どちらが勝つか』競い合います。上級者ともなれば、ルールギリギリのラインを見極め、ルールの隅っこまで使ってプレーをするでしょう。ルールという枠内で競うことにより、難しさはあれ、楽しさを見出し・やり甲斐を感じ・勝利することで達成感が生まれるわけです。
ルールがあるから"サッカー""バスケ"であって、全選手がルールに則っているから競技(スポーツ)として成り立ちます。
選手は『サッカーやバスケの決められたルールを守るという責任があり、責任を負うこと(守ること)でサッカーやバスケが成立している』という事です。
では本題の『自由の責任』はどこにあるのでしょうか?っというよりも、自由に責任なんて存在するのでしょうか?
例えば、真っ白な画用紙があったら何をしましょう?
絵を描くのはもちろん、折り紙のように折って使っても良いし、ハサミを使って切って使っても良いですよね。画用紙の色を変えても良いです。素敵なものを作成しても、ストレス発散に使用しても良いです。このようにできることはたくさんあると思います。
その真っ白な画用紙の使い方は『自由』な訳ですが、その画用紙は『使用者によって変化させられる』事になります。仮に人目に付くような状況や、評価の対象となれば、どういった結果が自分に見えてくるでしょう?真っ白の画用紙を綺麗に変化させた場合は賞賛され、酷い状態に変化した場合は批判されるのではないでしょうか?...「誰が?」そう、自分です。誰のせいにも出来ず、モノのせいにする事も出来ず、ダイレクトに自分に跳ね返ってきます。
真っ白の画用紙を自由に変化させたのは自分自身です。
つまり自由の責任は『自分自身』にあるという事です。
自分自身に責任があるほど重い責任はないはずです。
自由を欲しがる人の傾向として『目の前にあるルールを守らない』または『ルールが嫌い』な人が多いのではないかと僕自身感じています。
ルールや決まりが何故あるのか?何故必要なのか?まで考えた事はあるでしょうか?それらルールは"その物事(目的)が円滑に運ぶように、または不正や不平等が発生しないように、個人の成長を促す為に"など様々な理由から存在します。それらを理解し、踏まえた上で言うならば良いのですが、ルールや決まり事を守らない、守れない人が言う『自由が欲しい』という言葉ほど恐ろしいものはないと思っています。必ずと言って良いほど『自分自身が傷つく』または『他人を傷つけてしまう』可能性が高いからです。自分自身が傷つくだけであれば良いのですが、他人を巻き込んで"自分の自由のために傷つける"ような事は、人としてあってはならないと思います。
自由には責任が付きもの。自分という責任を負う。
自由を手に入れ、自分でルールや決め事を作った時点で『自由』ではないのかもしれません。楽しみたいのであれば、決められたルールを守り、ルールという枠の中で楽しんだ方が良いのかも入れませんね。ただ、自由だからこそ出来ることは無限にあります。ビジョンを描き、叶わないであろう事を想像し、組み立てる...そこの部分は『自由』だからこその楽しみです。
ルールがあって、守るからこそ"それ"が成立する
唯一ルールを破って良い時は『人としておかしい』と思った時。それ以外は『守れる人』であって欲しいと思います。何よりそれは自分自身の為に。そうでないと人生のペナルティが溜まってレッドカードが出てしまいます。試合から退場しないように注意したいところです。
New Article
Archive
- 2024年10月
- 2024年9月
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年6月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年9月
- 2021年8月
- 2021年7月
- 2021年6月
- 2021年5月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2021年1月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年6月
- 2020年5月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2020年1月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月